45話 疑問 夢の中に沈んでいる薫は今までで一番、心地よい感覚に包まれている。現実で起こっている物事を抱え込んでいるから余計に、疲れているのだろう。そんな自分の寝顔を伊月が見ているなんて思わずに、ただ一人、漂っている。ゆっくりと薫に近づいていく伊月は、夏樹の言っている事を思い出しながら、過去を振り返りながら、右手を彼の頬へ伸ばしていく。触れると暖かく感じるはずなのに、何故だか膜のようなものが彼の顔面を覆って、体温を感じる事が出来ない。肌質は人間そのものの柔らかさをしている。つつつ、と顔から首元へと指を逸らしていく。首の上の部分は顎で隠れている為、側から見たら違和感は感じれないだろう。しかし確実にでっ張りを感じる。その違和感の正体を知るように、カリカリと剥いでいく。専用の液体が必要なのかもしれない。伊月の指では剥がれそうで、剥がれない。もどかしさを感じながら、作業を続けていると、ピクリと反応を示した。「伊月……」 自分の名前を呼んだ事のない彼が、まるで昔からの知り合いのように呼び捨てで呼んでいた。その声をどこかで聞いた事のある伊月は、スーツ裏に仕込まれている機器に気付き、そっと外していく。「ん」 外された機器は、変声機のようでスイッチを押すと、別の声が流れてくる。どこかにぶつけた反動で、本来の声に近いものが流れてきたが、より確実なものにする為に、スイッチの電源を落とした。 彼の正体を少しでも知りたいと願いながら、変声機が外れた状態で揺さぶると、微かな寝言が伊月の耳へと届いていく。「この声は……」 不思議だった物事が少しずつ繋がっていくと、彼の正体が見えてくる。何故、自分に正体を隠して、親父の言いなりになっているのか、彼の生き写しのように演じたり、訳の分からない現実が伊月に突きつけようとしている。 顔は確認する事が出来ない。伊月は知らない。このマスクは所有者のみが外す事が出来る特注品だ。他者が除けようとしても、反応する事はない。その事実に気づかず、ぱっと手を離した。 彼の口から聞こえてくる声は、あきらかに薫のものだった。何度、聞いても間違える事はない。ずっと見てき
44話 彼を中心に言い合う二人 酔い潰れた薫を伊月の元へ送ると、不機嫌そうな伊月が迎えた。一人にされて何をする訳でもなく、時間を持て余していたのに、急に出て行ったと思えば、弟の夏樹が目の前にいるのだから、機嫌も悪くなるだろう。事情を軽く説明すると、邪魔しないようにそそくさと帰ろうとする。「入って」 機嫌の悪い時には言葉を簡潔にする癖がある。その事に気づいた夏樹は、嫌な予感を抱えながらも、伊月の言葉に従う事にする。ここで無理矢理帰ろうとすれば、余計事態を悪化しかねない。「……お邪魔します」 チラチラと伊月の顔を気にしながら、部屋に入ると綺麗な空間が広がっていた。そこは二人の為に用意されたお城の一室のようで、自分がこの空間に合っていない事に、以後血悪さを感じている。 伊月が先回りして椅子を引いて、夏樹を誘導する。気づかれないように小さく、ため息を吐くと、素直に座った。それを確認すると対面に座り、肘をつきながら目で語り始めた。何を言いたいのか分からない夏樹は、久しぶりの兄弟の再会がこんな形で行われるなんて、想像しなかったようだった。心の中でぶつぶつと形にならない言葉達を繰り返しながら、伊月の言葉を待ち続ける。「一緒に飲んでいただけって……夏樹はこの人がどういう人だか知って、言ってる?」 寝ていると言っても、本人がいる場所でする話ではない。酔い潰れているから、話を聞かれないと思ったのだろうか。いつもより真剣に話をする伊月が、遠い存在のように見えて仕方なかった。「そこは兄貴に関係ないだろ。てかどうして俺が尋問されている感じなの? 悪い事してないでしょ」 これ以上、説明すると、正体を隠した薫だと言う事に気づかれてしまう可能性があった。薫自身がしでかした事なら、自分は何も関係がないが、ここで全てを悟られてしまっては、薫に多大な迷惑をかけてしまう。それだけは避けたかった。 沈黙を貫く事が正解なのかもしれない。それでも二人を押さえつける伊月が放つ重圧からは簡単には逃げきれない。弟だから伊月の事を一番理解しているつもりの夏樹は、自分の言葉の使い方を慎重に選びな
43話 忘れていたもの 頭を抱えながら考え事をしている伊月を見ている。一人の世界に置いてけぼりになったように感じた薫は、つい魔が差した。薫は身を乗り出すように伊月の様子を見つめるが、その事に気づかずに、自分の世界に没頭している彼がいる。自分を見てくれない、そんな状況が嫌になっていくと、無意識に伊月の頭を撫で始めた。「大丈夫か?」 自分の役を忘れてしまっている薫は、ついいつものように伊月に触れた。びくりと急な事に体を震わした伊月は、現実に引き戻されたようで、怪訝な目でこちらを見ている。いつもなら拒絶をしたのかもしれない。それでもただ動かず、その現実に向き合っている彼は、新しい強さを持とうとしている。「大丈夫ですよ。考え事をしてました」 警戒していた表情が少し落ち着いていく。どうやらこのマスクの人物の事を考えていたようだった。伊月の話かたでそれを察知した薫は、言いようのない嫉妬心を抱えていく。近くにいるのに、遠くに感じる。このような経験は初めてだった。いつも伊月からアクションを起こしてくれていたのに、このマスクを使うと、自分で行動をしなければ見てもらえない。「貴方は……誰なんですか?彼と同じ顔で何事もなかったかのように、初対面の人に会うようにしている。僕と貴方は昔からの知り合いですよね?」 伊月の言っている事は正解のようで不正解だ。彼がどんな事をしてしまったのかは把握しているが、彼の人物像までは知らない。自分なりに演じてはいるが、伊月からしたら人が変わったように、別人のようにしか感じれないのだろう。本来なら自分の正体を明かして、楽になりたい。それでも、今はまだ無理だった。薫はそこに触れずに、無言を貫く事にする。伊月が都合のいい解釈をしてくれる事を信じて。「そうですか、黙るんですね」 間が持たない。この状況をどう切り抜けていけばいいのか内心焦ってしまう。マスクで表情を隠しているから、気づかれる事はないが、少しの筋肉の動きに馴染んでしまう。その事を考えると、どうしても無の表情を保つしかなかった。 時間は早いようで遅い。腕時計の針がかすかに触れながら、二人の違和感をより深いものへ
42話 作られた事実 自分の傷跡を見るたびに、傷つくのなら、見えない所でサポートすればいい。そう考えている彼は、伊月の知らない所で行動を開始する。なるべく日常を楽しんでほしいと願う気持ちは、周囲の人に沢山の指示を与え、いつしか彼を慕う人達で埋め尽くされていった。次第に上層部である話が持ち上がった。最初は親父の耳に入れないように、配慮していたらしいが、ここまで大きくなると、止めておくのは限界だったのだろう。 「彼はこの組織の人間を誑かしているようだ。この組織を乗っ取るつもりじゃないかと話が上がっている」 幹部五人は円卓の机で会議を続けている。そこに親父の姿はない。今日は話を通すかを決断する為に、極秘に会議を設けている形だった。何も知らない親父は、いつものように自室で書類整理をしている。 「他の組織とも結託しているようだぞ。この間ヤオハチの関係者と隠れるように密会をしていたしな」 吐き捨てるように状況を開示していく。ヤオハチの名前が出てくると幹部達の目つきが変わっていく。自分達の組織の妨害をしている闇組織ヤオハチ。今一番、警戒している組織の一つだった。表は経営者、裏は社会の治安を纏める為に出来ている伊月の所属する組織とは違う、犯罪まがいの事を中心にしているヤオハチに、沢山の闇組織が怒号を鳴らしていた。 「このまま好き勝手させておくのは、リスクがある。私達が奴らを支配しておかないと……」 幹部達は一斉に考え込んでいく。どうしたらこの組織を壊滅出来るのかを考えているようだった。その時、一人の幹部が思いついたように声を上げる。 「彼を利用する事で引っ張り出せるのでは?」 「その場合だと、こちらの行動は知られないようにしないといけない。どうする気だ?」 睨みをきかせながら、問いかけると、反応するようにニヤリと微笑んだ。何やら策があるらしい。幹部の一人は自分の考えた計画を周囲に伝えると、内容に驚いた幹部達は、一斉に笑い出しながら、決めていく。 裏でそんな事になっているとは思っていない伊月は、彼の事を思い出していた。いつも遠くから見守
41話 過去の彼と向き合う伊月 向き合って座っている二人は無言の中でじっと見つめあっている。話す気力の全くない伊月を見ていると、心が締め付けられていく。何か言葉をかけたいけど、別人の振りをしている今の自分に何か言える事はあるのかと考えてしまう。口にしてしまいそうな本音を溢れないように耐えている。「……貴方は」 自分にかけられた伊月の声を確認すると、虚な瞳が揺れていた。話すつもりがなかったはずだったのに、可愛い声が薫の心をじんわりと解いていった。何もかも正直に話したい気持ちが膨れ上がってくる。「なんだ?」 薫としての言葉はここで出してはいけない。自分に暗示をかけるように心の中で、何度も繰り返していく。何もなかったように取り繕うと、伊月の話を引き出していく。「どうして貴方は僕と婚約を?」「話が来たから、受けただけだ」 深い説明をすれば、自分の正体に気づかれてしまうリスクがある。最後の時まで、親父との約束を破らないように、安易的な言葉で繋げようとした。その事に、伊月は気づいていないようで、何かしら他にも理由はあるんだろう、と納得していた様子だった。「……僕には好きな人がいます、それでも僕を手放す気はないんですか?」 薫として関わっている時は、伊月のこんな表情を見た事がなかった。その対応を見ていると距離感がかなり開いているように感じる。彼に好かれていなかったら、こんな感じで対応されていたかもしれないと思うと、嬉しさが増していく。自分がどれほど、特別だったかを確認出来たから余計だ。薫は伊月の過去を親父から少し聞いていた。伊月にとってマスクの彼は拒絶するほど、嫌悪感を抱いているらしい。感情的になって、無礼な扱いを受けたなら報告をするように言われていたが、伊月も大人になったのだろう。完璧な対処だった。 空になったコーヒーを淹れにいくと、彼もお願いしますと差し出してくる。伊月も伊月なりに過去と向き合おうとしているようだった。コーヒーを淹れながら、次の言葉を考えていると、つい無言になってしまう。背中に感じる視線が痛い。伊月は彼の言葉を待っているのだ。
40話 勘違いの現実 ずっと薫と過ごした部屋で居続けている伊月は、現実から逃げるように耳を塞いだ、彼にとってどんな音も、心の不安定を引き出してしまう材料になっているようだった。二日間、何も食べずにいる伊月の様子を確認している部下は、ため息をつきながら、体を支えていく。「満足しましたか? これが現実なんですよ。貴方と彼は縁がなかったんです」 縁がなかったと言い切る言葉が強烈な痛みを彼の心に与えていくと、全身に見えない力がかかっているように、重力がかかっていく。こんな思いをする事は、初めての経験だった。どんな事があっても、乗り越えられる自信を持っていた伊月だったが、こうも直面すると、耐えられない。捨てられた現実を受け止めきれない心に亀裂が生じる。これ以上、傷つきたくないと思いながら、全ての言葉を遮断する。それしか自分を守る術を知らなかったんだ。「こうなるのは分かっていたはずですよ。好き勝手してきた報いですね。これ以上、説教する気はないんで、そろそろいきましょうか」 歩く意思のない彼の体を抱き抱えると、部屋を出る。まるで死体を運んでいるような感覚に陥りながら、ため息を吐いた。 カンカンと階段を降りていくと、彼の婚約者が待つ車が停車していた。彼の護衛をしている人達は、周囲を警戒しながらも、伊月を受け入れる体制を作り出した。「後は頼むよ。私はまだ仕事があるから」「はい、お任せください」 護衛をしている三人のうち、一人は自信たっぷりそう言うと、満面の笑みで送り出した。新人教育をしながら、護衛をしている他の二人に視線で合図を送ると、苦笑いが返ってくる。エンジンの音が唸り上げると、何もなかったようにその場を離れた。 二人は無言の中で同じ時間を共有し始める。過去ばかりを見ている伊月と、正体を隠しながら彼の様子を伺う薫の姿が対比を生み出していく。どんな言葉をかけたらいいのか考えてみるが、今の伊月には言葉で説得しようとしても、地獄に突き落とすだけだろう。マンションを出る前に電話で言われた言葉を思い出しながら、瞼を閉じた。「伊月には正体をギリギリまで明かすな。あ